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ほんま会


2009年6月22日発足した「ほんま会」を中心にした
これから前向きに生きる会員たちのお話ブログです!
福島県に住んでいることで、世の中の矛盾が他の人よりも良く分かってしまいます。
真実のメッセージを発信していきます☆
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    長崎の被爆者の孫です。  市原理恵子
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      長崎の被爆者の孫です。
       


      市川さんは長崎の被爆者のお孫さんです

      その体験(経験者のお話)を記事にしてくれていますので

      不安な方は、これを読んで心を落ち着けて頂ければと思います!

      以下抜粋

       私の祖母は、長崎原爆投下の際、ばっと核爆発の光を浴びたり熱風を浴び「なかった」被爆者です。
      85才どころか93才まで元気でした。もちろん原爆手帳は交付されています。
      病気らしい病気をしたこともなく、染めていないのに髪も黒々としており、早朝から庭木の手入れをしつつ趣味の旅行を楽しんでいました。



      祖母は、太平洋戦争中に看護婦として働いていました。
      そして、長崎に原爆が投下された知らせを受けて、派遣命令が出され、福岡から汽車と徒歩で長崎に向かいました。
      (原爆がなんであるかは誰も知りません。長崎に大きな爆弾が落とされたらしいという知らせをうけて急遽派遣されました。)
      当時祖母は20代後半でその派遣部隊の班長で4〜5名の後輩看護婦(10代20代の女性)と一緒です。


      長崎市内に到着したのは、原爆投下の2日後です。
      ですので、祖母はばっと核爆発の光を浴びたり熱風を浴び「なかった」被爆者であり、
      放射性物質をあびただけの被爆者に該当します。




      福島第一原発から出た放射性物質は大半が太平洋に流れ出していますが、
      長崎では谷間に原爆が投下されており、放射性物質が風に流されることなく停留していたと思います。

      その中で、長崎の水を飲み、食べ物を食べ、風に吹かれて、雨に打たれて、祖母は看護婦として働いていました。
      防護服なんてありませんし、屋内避難やマスクや、屋内の水拭き・・といった概念もありません。

      現地にいた期間ですが、三ヶ月か半年かは、ちょっと手元に資料がなくわかりません。
      ただ、長崎原爆投下直後は医療関係者が非常に不足していますし、簡単に現地から離れることは不可能だったと思います。
      この長崎派遣の後、看護学校の教員にリクルートされましたので、途中で逃げ出さず、長期の任務を全うしたのだと思います。



      祖母も元気でしたし、同行した若い後輩看護婦の皆さんも戦後それぞれ活躍されて、長生きされています。
      放射能のせいで病気になったなんて耳にしたことがありません。

      当時のことについては、あまりにも現地の状況が酷く、祖母は話したがりませんでした。
      ばっと核爆発の光を浴びたり熱風を浴びた街や人々の悲惨さは、思い出すと苦しくなり、口に出して話せないと言っていました。
      「戦争はしちゃいかん、あんなひどかことは絶対にいかん」と顔を伏せて言うばかりでした。


      これは、私の身内の話ですが、参考になればと思い、投稿しました。


      |00:13| 原発関係 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 本間 香伊奈 - -
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